池田満寿夫と新世代

New generation with Masuo IKEDA

I wrote a text about Masuo IKEDA's work in conjunction with a show titled "New generation with Masuo IKEDA".

不忍画廊で開催された展覧会「池田満寿夫と新世代」に寄せて、池田満寿夫作品についてのテキストを書きました。

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『この「女•動物たち」の成功がそれ以後の私の版画制作の様式を決定づけた、といっていいほどの重要な意味を持っている。ここではうごめいているフォルムが女にも見えるし、同時に動物にも感じられる。つまり素早く走る線で形作られたフォルムは女であってもいいし、動物であっていいのである。むしろこの画面で私が意識的に意図したことは、上方のおびただしい黒い線の集積であった。この黒い部分は背景のようにも見えるが、私は女の髪として表現したのであった。そしてそれは同時に女性の陰毛を意味していた。』註1) 26歳の池田満寿夫が表現した黒い線の集積は、女性の象徴であり、同時に私たち人間という一種の動物が誕生する場を覆う茂みでもある。池田と世代の離れた私が、この小さな作品「女•動物たち」に強く魅かれる理由は、こうしたプリミティブなものへの憧れに他ならない。それは、私自身が作品のテーマとしている「生命」とも深い部分で通ずるからである。 「赤いセーターの女」に目を移してみよう。この作品にも顕著だが、池田の初期ドライポイント作品は、絵を描くというよりも、線を刻みつける行為そのものに重点が置かれている。小手先の技巧的な版画ではなく、素材と直に触れ合い彫刻することが当時の関心にあったのであろう。(じじつ、池田は3度の芸大受験のうち2度は彫刻科を受験していた)画面を間近にすることで認識できる、絡み合った線、黒インクの盛り上がりと滲みは、紛れもなくひとつの有機体として紙の上で呼吸をしている。『私のドライポイントの発見は、デッサンを途中で放棄してしまうことから始まったのである。そして、そこに最小限の色彩を最も有効に使用することが課せられた。最小限の色彩とは、青、赤、黄の三原色にほかならない。』註2)という池田の言葉が集約された1点ではないか。デッサンを放棄することで、頭のなかのイメージを版画にするのではなく、銅板に力いっぱい刻み込んだ線がイメージとなって表れてくる。自己を空洞化させ無意識に行われる素材との対話と感動、そして小さな驚きが「赤いセーターの女」には詰まっている。

2015年1月15日 田沼利規

註1)株式会社講談社1974年9月10日発行「my imagination map」P26より)

註2)株式会社美術出版社1968年12月1日発行「私の調書」P103より)